プロフィール

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「初めてのエレキギター」

エレキブームの洗礼

なつかしい学校の教室での演奏風景 ’60年台初頭、あのエレキ・ブームの洗礼を受けた若者は例外なく”エレクトリック・ギター”に憧れを抱きました。 しかし、それを手にできるのは”いいとこの坊ちゃん”か”多少なりとも稼ぎのある もの”に限られました。
 ’63年、高校入学前の春休みに従兄弟を頼って上京。そこでPPMのレモン・トゥリーとBeatlesのラブ・ミー・ドゥを聴いた僕は”ポップスの虜”になってしまいました。以来、クラブ活動(当時、何故かバレー・ボール部に)の合間を縫って織田君(彼とは小中学校の同期で、一緒にブラス・バンド部に在籍。後にフィバーズというバンドを結成)の部屋へ入り浸り、ビートルズ(特にセカンド・アルバム)を聴きまくりました。
 高校一年生の時の文化祭に、何故かビクター社の真っ赤なエレキ・ギターが展示してありました。初めて触ってみました。
音を出してみました。当時の僕のノートはギターのイラストだらけ。そのシェイプはバイソンの角を思わせるダブルカッタウエイ。当時僕のフェイヴァリットは、近年日本の楽器店でも見るようになりましたが” バーンズ社”のギターでした。サーチャース、シャドウズそしてハニーカムズなどブリティッシュ・グループのギタリストが使っていましたよね。そしてようやく17歳高校3年生の暮れ、父親からエレキ・ギターを買ってもらたのです。メイカー名は忘れましたが真っ白なボデーに黒のピックガードの奴。このギター、後輩に貸したっきり戻ってきません。

FeversFeversのメンバー

コレクター

 ’66年春僕は県立病院に就職しましたが、バンド活動は続けました。ライブはお祭りなどのイヴェント、ダンス・パーティー、ビア・ガーデン、ゴーゴー・クラブなど。
’68年、前年始まったYAMAHAライトミュージック・コンテストで県代表(マッコイズの”Fever"とデイヴ・ディー・グループの”Hold tight"を演奏)になりましたが、翌春、バンドは解散。そして’73年春結婚。僕のコレクター人生が始まります。
 高卒で県に採用された僕の初任給は16100円で、お小遣は5000円。これが結婚まで続きましたから、好きなLPを買えるようになったのは、ちょうどこの頃からです。友人からCDプレーヤーを譲ってもらってから、レコードをCDに切り替えましたが、現在までLP、CD合わせて5000枚ほど集めました。最盛期、年に400枚も買い込んでしまい、気づいたらツケが30万円にも。いづれ、これらLP、CDについても紹介したいと考えています。
 コレクターというものは、何につけ集め始めると”欲しくなる””捨てられなくなる”という性癖があります。僕のこの悪癖はギター、レコード(&CD)に留まらず、マグ・カップ、収納グッズなどなど多岐に及ぶことになります。

Neel Okada Profile. 1947/7/30